父娘
椅子に座ると目の前の女性が言うことをしっかりと聞こうとしている。
「かあさま、おはなしきかせてください」
きらきらと目を輝かせて、急かす幼い娘に苦笑を浮かべつつも口を開いた。
「魏の曹孟徳。蜀の劉玄徳。呉の孫文台。でも知ってるでしょう?この三人のことは……」
「うん。孟兄さまといっしょにてんかをとろうとしてるひとたちでしょ?」
「そう。その中の蜀の劉玄徳のお話にでもしましょうか」
言われ顔を輝かせる。
身を乗り出し母から一言一句聞き逃すまいと必死なのが、ひしひしとの母である卞夫人にも伝わってくる。
「くす」
っと思わず笑ってしまう。
「かあさま、はやくはやく」
ぱたぱたと手を動かして話を早くしてもらおうとするに、笑みを送りながら卞夫人は言葉を綴っていく。
「蜀の劉玄徳には関雲長、張翼徳の義弟のほかに趙子龍、馬孟起、黄漢升が居ることは知っていますね?」
じぃっと話を聞く間は静かに聞いているに問うと、はこくこくと頷いた。
「その中の趙雲についてのお話よ。孟徳様は劉表という人を倒すの為に戦をしに行ったの。
でも目当ての劉表は亡くなってしまってどうすることが出来なかった。
孟徳様がそこに着くと劉表の後を継いだ劉jは孟徳様のことが怖くなって直ぐに降ってしまうの。
劉備はその地に長く滞在をしていたから、民草に人気があったの。
孟徳様は過去に民草に嫌われることをしていた為に孟徳様に降るくらいなら、劉備に従うと大勢で逃亡をするのよ。
その数はでは決して数えることが出来ないでしょうね。……沢山よ。
私も聞いただけだから詳しくは分からないけれど、本当に沢山―。
そのことを知った孟徳様はお馬さんを使う兵を連れて追いかけることになったわ。
―考えてみて、数え切れないほどの民草が劉備というたった一人を慕い集うということがどれほどの脅威となるかを……。
中にはも知っている夏侯惇将軍の様な武人となりうる人が居るかもしれないのよ。
それが一人でなく数え切れないほどになったらどうする?
怖いでしょ?
丁度長阪まで追いつくまでになった時、劉備は民草だけでなく家族までも捨て去り逃げたの。
勿論残った民草は孟徳様と共にあるわ。
その時趙子龍が、劉備の子阿斗とその母親をたった一人で守ったのは……。
五千というお馬さんの兵を相手に、趙子龍は一人で戦ったの」
「ごせん?どれくらいのかずなの?」
じぃと目を決して離そうとしないが、感心したように言う。卞夫人は笑みを浮かべた。
「はどれ位の数まで数えられるようになったの?」
「うんと、ひゃく」
両手を広げて指を数えながらも手と夫人の顔を交互に見ている。
「それを五十回繰り返すほどよ」
瞬時にの頭に、沢山の馬に乗った兵らしきものが浮かび白い馬に乗った大男が浮かんだ。
「すごーい。で、かあさま、孟兄さまはちょーうんをぎのひとにしたの?」
ふるふると夫人のかぶりが左右に振られて、ががくうと項垂れてしまう。
「……」
ちょーうんってひと惇兄さまよりすごーい。
もしかしたら孟兄さまよりもすごい??
夫人に見えなかった顔がゆっくりと見え始めてくる。
「……」
苦笑を浮かべることしか出来ない表情だ。
は段々ときらきらと輝かせてくる表情に、本人が気付いているのだろうか。
いや、それはないだろう。
「かあさま、すっごいおはなしをきかせてくださってありがとうございます。わたし孟兄さまのところにいきますね〜」
椅子からぱっと飛びのくと、いつもの素早さで駆けて行ってしまう。
「あら、悪い癖が出たわね。
……全く孟徳様にああいうところまで似なくても良いものを…。顔は似ていないものを……」
ふぅと溜め息を吐いて、唇を指で触り伏せ目がちにの座っていた場を見る。
「あの子気付いてないのかしら……。この曹魏には趙雲よりも素晴らしい武人が居ることを……。
……、貴女のためならば例え倍の数……いえ零が一つでも二つでも増えようが守ろうとする人達が、此処には沢山居るのよ」
曹操は気分良く酒をたらふく飲みながら、楽と共に繰り広げられる舞いを堪能している。
そこに突如小さくだが、曹操の耳に大きく響きわたるものがある。
ぱたぱたぱたぱた―。
「?」
傾けようとしていた杯を持つ手を止め、宴に相応しくない音の方を赤い顔で見遣る。
「孟兄さまっ!!ほしいのっ!」
豪快に開けられた扉から現れたのは酒には縁などありはしない幼子。
曹操が何よりも可愛がっている卞夫人との間に生まれた―。
息を切らしながら、曹操とは別の意味で真っ赤に顔をさせている。
何事か―。
刹那に曹操は思う。
が、が始めに叫んでいた言葉を思い出して、何をだと思う。
「はちょーうんがほしいのっ!」
「何じゃとっ!あれは儂が欲しいんじゃっ!」
この親ありて、この子あり。
二人を見ながら、大きく深く溜め息を吐かざるを得ない男が、一人―。
「はぁ〜」
「惇兄も大変だなー。孟兄にの二人じゃー、勝ち目ねーんじゃねーか?」
じとりと隻眼で睨まれて隣に座っていた同じ姓の夏侯淵は、苦笑を浮かべ誤魔化すように杯を傾ける。
彼等の前方では親子が論争を繰り広げている。その内容は非常にくだらないもので、聞く方がばかばかしいものだといえる。
が…。
暫くすると問題が起こってしまう。
「は未だ子供じゃーっ!酒も飲めぬようなお子様に趙雲はやらーんっ!」
「だっておさけくらいのめるもんっ!だからちょーうんはのっ!」
ばっと曹操の持っていた杯をひったくると、ぐいっと一気に飲み干してしまう。
その様を見ていて、全ての者が凍ったのは最早言うまでもないことだろう。
「らっておたれくやーいのめーゆっ!」(訳:だってお酒くらい飲める!)
「呂律も回らんようなお子様では問題にならぬぞっ!」
「らんといえってもん」(訳:ちゃんと言えてるもん)
「せいぜい一杯しか飲めんくせに、儂の趙雲はやれんわっ」
と曹操に言われたことが、余程癪に障ったのかはこともあろうことか、は曹操の直ぐ側に置いてある酒に手を出そうとする。
「そこまでだ。孟徳」
が取ろうとした酒を取り上げるは、二人が最も信頼している男――夏侯惇。
がやーんと言いながら夏侯惇の持ち上げた酒を取ろうとするが、身長差がありすぎるし夏侯惇は立ったままの状態。
絶対に取られることはないといえる。
「もちょーうんほしい。ごせんのおうまさんのったへいよりもつよいのほしいの〜」
「儂とて趙雲が欲しいんじゃ。あれほど無傷で生け捕れと申したものを…」
「孟兄さまにはいぱーいいるの〜」
ぴょんぴょんと跳ねながら酒を取ろうとするに、夏侯惇はやれやれと言葉を綴ってしまう。
「には俺達が居るだろう?」
「や〜、ちょううんがいいの〜」
ぴょんぴょんと跳ね続けるは、眦に涙を溜めながら言ってくる。
じろり
と隻眼が曹操を睨みつける。
「へ?」
お前のせいだとばかりに睨みつける夏侯惇に、曹操は素っ頓狂な声で返事をしてしまう。
「うにゅっ!」
ほぼ同時にからも素っ頓狂な声が洩れる。
曹操も夏侯惇も…彼等を心配し見に来た他の連中もただ一人に視線を移す。
「うにゅ〜惇兄さまぁ」
ひしと夏侯惇にしゃがみ込みながらもしがみつく。
一体どうしたのだと、顔を覗き込むと、は紙のように白い色を肌に宿してしまっている。
まさか
と思う。
「きもちわるいの〜」
ひょい。
と血相を変えて抱き抱えると夏侯惇は、慌てて厠の方に駆けて行く。
「うにゅ」
「まだ、吐くなよ」
泣きながらも何とか一つだけ頷くにやれやれと思い、曹操に憤りを感じてしまう。
一体幾つの子供に、酒なぞ飲ませていやがるっ!
厠に辿り着くと苦しみながら吐くの世話をするしかなかった。
「孟徳、お前は一回死ね」
と言われて曹操孟徳が家臣であり右腕でもある夏侯惇に追われるのは、言うまでもなかろうて。
卞夫人は暫く後にこの話を聞いて、実に楽しそうに笑ったそうな。
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