*** 恋は盲目 ***
私は、小さい頃から好きになるのなら誠実な男を、と思い描いていた。
嘘も吐かず、浮気もせず、真っ正直で優しい男に真心を捧げよう、と。
しかし。
そう、うまくいく筈もないのが、現実というものなのである。
「もう、やだぁ、凌統様ったら!」
まただ。
私は、上瞼を真っ平らにしてその場に立っていた。
くすくすと忍び笑いをする女の声と、それに押し被せるように響く不埒な声。
「いいじゃん。アンタこれからヒマに、なるんだろ?付き合えよ」
「もう、駄目ですよ。誰かに見られたら…」
「見てるヤツなんていないって。だから、さ……な?」
見とるわ!この、年がら年中サカってるアホ上官!
……とは、さすがに絶叫も出来ず、私はわざとらしく咳払いをした。
もちろん、いちゃついている(それも、昼日中から)二人に聞こえるよう、大きく。
ぴた、と男女の声が、やんだ。
「呂蒙様が、お呼びです」
そう、事務的に私は告げた。
ややして、袖で顔を隠しつつも、私をしっかりと睨んでくれた侍女が小走りにその場を立ち去るのを見送って
またか、と凌統様が呆れ果てたように私に声を掛ける。
「イイ所で邪魔してくれるんだよなあ、は…」
「それはそれは、申し訳ありませんでした、凌統様」
私も、嫌味たっぷりに言ってやる。
「折角のお楽しみを、中断させてしまって本当に申し訳ありませんでした」
それが嫌なら、こういう破廉恥な真似は夜にしてくれ、とぴしりと言い放つと
彼は悪びれずに肩を竦めて、笑った。
「そう、四六時中オレに張り付いてなくても、いいんだけどさ。いくらオレの護衛武官だからといって」
「…護衛武官、というお言葉の意味、理解されていらっしゃいます?」
「されていらっしゃる、よ?一応」
「…それは重畳です、凌統様。一応、という心許ない一言でも、ありがたい事だと思います」
「おまえ、オレをバカにしてる?」
「まさか。敬意は、払っております。一応」
この城の侍女の五人に三人は『喰っている』という噂がひんぴんな相手ではあるけれど
凌統様はとても有能な方だ。
そういう御方にお仕え出来るのは身の誉れ、とは思うのだけれど。
私のその言葉を耳にした凌統様は、唇の端を歪めて寄りかかっていた柱から身を起こした。
「いい態度だ、」
将来有望で、腕も立って、口も立って頭も良くて、そして美男。
こういう性質の男は、一番、私が敬遠する筈の相手では、なかったか。
私に一歩、近寄る凌統様の脚の動きに併せて後じさりながら私は歯噛みした。
男は、狼なのよ。
それを私に口が酸っぱくなるほど言い立てていた母は、父の度重なる浮気にいつも泣いていた。
男は、信用してはいけない。
手に入れてしまえば、釣った魚に餌はあげないと言わんばかりに蔑ろに、するのだから。
だから、男を信じたら駄目よ。
そう言う母に同情しながら、私は心の何処かで母をバカにしていたように、思う。
そんな男に(というのは父の事だが)引っ掛かった母が、悪いのである。
そうなるのだったらどうして、結ばれる前によく相手を見極めなかったのか。
子まで作っておいて、今更ああだこうだと何も知らない子供に
父親の悪口を言うような母にだけはなるまい、と決めていた。
決めていた、のだが。
「結構、おまえは上官に対してズケズケと物を言うんだな、」
まずい。
もう、後がない。
壁に追いつめられ、私は冷や汗を垂らして、目の前の凌統様の顔を眺めていた
。
「お仕置きしなくちゃ、だな」
なんの。
心の中で突っ込みを入れた私に構わず、凌統様は私の顔の横に手をついた。
逃げ場が、もうない。
「…ご、ご冗談を言われるのは困ります、凌統様」
「冗談かどうか」
そう言いながら、凌統様は耳許でひそ、と囁いた。
「試してみる?」
「な……何をい、言われているのか、わわ分かりかねます」
声が。
息が。
熱が、私のすぐそばに、あった。
「せっかく、イイ感じだったのにさ。おまえが邪魔するから、不完全燃焼もいいとこだよ」
知るか!……と、言い返したかった。
そんなもの、私が知った事じゃない。
でも。
何も、言えない。声も出せない。指先一つ、動かない。
瞳の色で、声で、凌統様は簡単に私を金縛りにさせる。
なんの因果だ、と私は泣きそうになる。
嫌いだ、と思わなくちゃいけないのに。
こんな不実で女にだらしない男になんか、関わっちゃいけないと思っているのに。
いつの間に、私はこんなにこのひとの事を、心に忍ばせてしまったのか。
このひとが私の心に侵入してこようとするのを
どうしてあらん限りの意志の力でもって、阻止しなかったのか……
いや、侵入させたのは私のせい、なのだけれど…私が勝手にこうなって、いるだけなのだけれど…。
「あ」
「?!」
不意に、凌統様は声を上げた。なんだ、と焦っている私を尻目に。
「、こんなところにホクロがある」
「……ホ、ホク…」
「ほら、ここ。この、耳たぶのとこ」
ふい、と凌統様の指先が、私の耳朶に触れた。
知るか!
私のどこにホクロがあろうとイボがあろうと、関係ないだろう!そう叫ぼうとしたのだ、けれど。
「数えていい?」
にや、と笑って、凌統様は囁いた。
「今度さ、おまえのホクロ、数えていい?もちろん、昼間じゃないさ……夜に、ね」
もう限界だ。
こんな上官、いらん!
そう思ったのは、その場を遁走して冷静になった時、だった。
(……泣きそう)
凌統様の姿が見えなくなったのを確かめ、私はヘナヘナとその場に座り込んだ。
好きになっちゃいけないのに。
あんな、あんなひとの事なんか、心に入れちゃいけないのに。
囁きを贈られた耳が火傷をしたように熱くて、私はきぃっ!と足をジタバタ、させるしかなかった。
*****
オレは、小さい頃から『人を好きになる』という事が理解出来なかった。
相手の事を想って心がときめいたり、切なくなったり、苦しくなるなんてあり得ない、と。
絶対にそんな愚かしい立場に陥るものか、と。
しかし。
そう、うまくいく筈もないのが、現実というものなのである。
「こ、この、女ったらしのバカ上官!」
そう絶叫して、はオレのそばから離れていった。
……おい、いくら何でもケリまで入れるか?オレは上官じゃないか。
酷いなあ、蹴る事はないだろう?
いてて、とオレはみぞおちを押さえて起き上がった。
ちょっと、ふざけただけじゃないか。
…ふざけ過ぎた、とは思うけどさ。
けれど、その時オレはくすくす、笑っていた。
あの生真面目そうな顔を真っ赤にさせてうろたえてたが、あまりにも可愛くて。
すぐに考えている事がモロ分かりなアイツを思うと、ついつい笑ってしまうのだ。
がオレの護衛として仕官してからというもの、こうやって彼女をからかって遊ぶのが、今のオレの一番の娯楽だ。
は、いつもオレを見て仏頂面のまま、あれこれ意見を言上してくる。
やれ、朝っぱらからヘンな事はするな、だの、真面目に仕事しろ、だの。
最初は正直、うざったかった。
放っておけ、と思って無視していたんだけど。
ああいう、おカタくて融通の効かない、真面目なだけが取り柄の女
眼中にないと思っていた……筈、なんだけどなあ。
いつの頃から、オレはのそういうところが、たまらなくツボにはまってしまったらしい。
きゅっ、と唇を真一文字にして、素のままの表情を見せてくれるアイツに
どうにもこうにも気に入ってしまったらしいのだ。
だから、わざと目に付くようにそこら辺の侍女を口説いてみたり、不真面目な態度をしてみたりする。
泡を食って説教をしてくる彼女を見たくなる。
わざと怒らせて、楽しんでしまったりする。
素直じゃない、のかもしれない。
率直に、オレ、おまえの事が好きになったみたい、と言えればいいのかも知れない。
けれど、そんなの何だか悔しいじゃないか。
恋愛において、主導権を相手に握られちまうのって、ものすごく、悔しい。
オレの主義に反する。
……反する、んだけど。
文句を言ってきたり、むくれたり、そうやってオレにかまけてくれるをもっと見たい。
からかって、オロオロしたり顔を真っ赤にして動揺するを、もっと見たい。
……そりゃ、怒るわな。こんな事してたら、さ…。
「まずいなあ…」
からり、と晴れ上がった空を見上げて、オレは苦笑した。
こんなに、深入りするつもりは、なかったんだけどなあ。
ちょっとからかって、関心を自分に寄せて
で、ちょっとイイ感じになったら飽きるかと思っていたのだけれど。
やばい。
オレ、完璧ににハマりそう。
さっき見せたの顔が、忘れられそうになくて。
耳どころか首筋まで真っ赤になったが、すごく可愛く思えて。
本気で、数えたくなった。
彼女のホクロだけじゃなくて、全部、全部知りたくなっちまった。
逃がしたくない、なんて思ってしまった。
…ま、速攻ヒザ蹴り喰らって逃げられちまったけれどな。
は、あの色気も素っ気もない態度で、仕草で、顔つきでオレを惹きつける。
オレの心を簡単に、縛ってしまう。
なんの因果だ、とオレは溜息をつきたくなる。
関係ない、と思わなくちゃいけないのに。
あんなカタブツで色気もなくて、面白みのない女なんか、オレの範疇外だと思っているのに。
いつの間に、オレはこんなにアイツの事を、心に忍ばせてしまったのか。
アイツがオレの心に侵入してくるのを、どうしてあっさりと許しちまったのか。
いや、許したのはオレ自身、なんだけどね。
あーあ。
やってられないねぇ……。
頭をぽりぽりと掻いたオレの脳裏に、『恋は盲目』なんていう、いやーな言葉が浮かんだ。
舌打ちしたくても、こうなったからには仕方がない。
理性で、思考でどうしようもないのが恋だ。もう、オレはそれを身を以て知ってしまった。
責任、取れよ、。
そう呟き、オレはにやりと笑った。
きっと、そのオレの顔を見たら、またぞろは顔を引きつらせて文句を言うんだろうな。
そう、思いながら。
< FIN >
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